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旧御射山遺跡(もとみさやま)
八島湿原の南端、御射山に、諏訪大社下社の奥宮ともいわれる、四方に御柱の建った小さな社があります。鎌倉時代、ここに軍神、諏訪大明神を祭って御射山の祭りが開かれ、諏訪、甲斐を中心に武士や幕府の重臣たちが集まりました。祭壇を中心にして、広く三方を囲むなだらかな丘の中腹を数段に削って桟敷を設け、小笠懸、相撲、草鹿、武射競馬などの奉納試合を行ったといわれています。
祭りは夏の5日ほどで、その期間は見物客も集まり、田楽、猿楽などの興行もあったといいます。
この桟敷の跡が、今も丘の中腹にスタンドのような形で残っています。
御射山から流れに沿って観音沢を下れば、諏訪大社御柱祭の下社御柱置き場のある大平集落です。
諏訪上社の御射山社
古来,諏訪大社には幣殿拝殿片拝殿などの設備はあるが本殿としての建築がなく,奈良県の大神神社とともに古代の祭祀の形態を伝えています。
坂上田村麻呂が征夷大将軍として東征のみぎり諏訪明神を東関第一の軍神と仰ぎ、神助により大任を果たしたと諏訪大明神画詞にあります。平安朝以来,諏訪を中心とする信濃武士が朝廷側近の武士として登用され,鎌倉時代以降は源頼朝初め源氏一族・北条氏一門・武田信玄その他の武将が武門の守護神として崇敬しました。徳川幕府も上社に1,000石,下社に500石を寄進しており,こうした背景のもとに諏訪神の神威があまねく武士階級に広められていきました。
「ここに鎮座する御射山社(みさやましゃ)は、建御名方命と国常立命(くにとこたちのみこと)を祭神としています。
中世には、この社のある通称原山の一帯は神野と呼ばれる諏訪上社の社領で、上社の御射山御狩りの祭事が行われていた。それは、秋季の台風などが平穏に過ぎ、五穀が豊かに稔るように祈願する「風祭り」の意義をもつものでした。
御射山社の祭事は旧暦の七月二十六日から三十日までの五日間にわたり、穂屋(ススキで囲った仮屋)を造営して大祝・神長官をはじめ多数の神官や武士などが参籠し、狩りを行って獲物を神に供え、豊作を祈願し、また流鏑馬(やぶさめ)などの武技競べも行われたと伝えられています。
これらの祭事は鎌倉時代以降、内容の変化や戦乱などによる一時的な中断はあったものの、数百年間にわたって継承されました。明治以降には庶民の民俗的信仰と結びついて幼児の健康祈願も行われるようになり、一般に「原山様」と呼ばれ、昭和初期までは草競馬や露天商も加わって賑やかな祭りでした。
けれど、こうした祭事の舞台となった広大な神域も、明治中期の下原山入会地の分割によって10ヘクタールほどに縮小され、さらに太平洋戦争中の開墾と戦後の農地解放によって半減しました。」
・・・・・富士見町教育委員会
御射山社は、諏訪南IC極近にあります。しかし、賑わうのは御射山祭中日の本祭り一日だけで、普段は人っ子一人いません。また、社地が半分になったとは言え、まだまだ広大な神域です。それを畑と林が囲っているので、人臭さからも隔絶されています。
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